出雲健康公園「出雲ドーム」整備プロジェクト001
○出雲ドームの基本計画及び技術プロデュース(回想)001-1
2014年11月1日
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(提案コンペ最優秀案;鹿島建設グループ案 1989(H1)
出雲健康公園・出雲ドームは、自治体初の全天候型スポーツ施設として、平成元年に就任した岩國哲人出雲市長が提案され、注目を集めた施設です。出雲ドームは、平成4年4月29日に竣工式を迎え、今や出雲のシンボルとなり、市民に親しまれています。
私は、若輩ではありましたが、出雲健康公園の立地選定基準、施設の基本計画から設計競技の提案実施に関わる技術資料の作成、全体の工事監理及び管理運営計画の担当をさせていただきました。その中で、このプロジェクトは、単なる建築技術に留まらず、都市計画上の位置づけや景観形成、公園施設のあり方においても、新しい展開へと繋がった計画ではなかったかと考えています。
出雲ドーム本体の設計は、設計コンペにより、日本大学の斎藤公男+鹿島設計エンジニアリング総事業本部(建築;尾崎 勝、構造;播 繁)によるものであります。私は、市側の技術責任者として、建築、造園、設備等の専門家と設計調整を図りながら、PM(Project management)の立場で業務を行いました。ここでは、その概要について触れてみます。
<事業の概要>
○健康公園 面積:8.86ha 内容:多目的広場、フレッキシブルコート、ジョギングコース、流れ・池、アスレチックス遊具(2002年サッカーワールドカップキャンプ地となったことから、それに向けて芝サッカーコート、少年野球場等が設けられ、広場の改修がされた。)
○ドーム 建築面積:16,377㎡ 高さ:48.9m 屋根:直径143m、テフロン膜
内容:野球(両翼90m、センター110m)サッカー・ラグビー・ゲートボール(20面)ほか
展示会、式典、音楽イベントなど、収容人員5,000人(グラウンドは後に人工芝化)
総事業費 68億円
平成7年10月 「都市景観大賞・景観形成部門(地区レベル)」を受賞(受賞者:出雲市)
1.技術的提案とその理由
1990年前後は、都市公園にドーム型施設設置の気運が高まった頃で、高齢化社会を迎えようとする時期でした。健康づくりへの関心の増大や、市民スポーツに対するニーズの多様化や地域の活性化を狙い、各地で全天候型施設が検討されるような時期でありました。
しかし、自治体で本当にできるのか。多くの批判があるりました。私は、企画を進める立場にあり、計画そのものの前提となる基本的課題を明確にして、次の6つ方針で取組むことで、解決を図ることを提案しました。
1)基本的課題の認識
①なぜドームなのか。→自治体ドームの目的、地方活性化に何ができるのか。将来の展望はどうか?
②公園計画において大型施設の計画は、どうあるべきか。→その規模・内容の根拠は?
③大型拠点施設の都市計画、都市景観上、どのように位置づけるのか。→施設立地の条件整備は?
④建設費・維持管理費への不安→コスト縮減、省エネルギー対策、財源確保、事業化の手法は?
⑤ドームに対する市民のニーズ、認識とのギャップをどう埋めるか。→市民参加・説明責任は?
⑥ドームの建築的課題(意匠・構造・設備)をどうするのか。→新しい技術開発は?
これらの課題に対する提案の概要は、次のものでありました。
2)技術的な提案と評価
①出雲ドームの目的と規模の提案→「コミュニティドーム」
②都市基幹公園における建築物の割合の提案→「建ぺい率20%以内の提案」
③地区景観形成への提案→「新しい出雲の地区景観形成の条件設定」
④建設費・維持管理費の縮減への提案→「省エネルギーのための基本設計指針の作成」
⑤情報公開・市民参加の手法提案→「イベントによる市民理解と定期プレス発表」
⑥新しい設計競技方式の提案→「建築家・都市計画家(造園家)・建設企業・イベント企画者の参加する事業家スタイルコンペの実施」
①について:
出雲ドームは、あくまで市民利用主体のドームであり、安価で利用できること。しかし、単なる屋根付きグラウンドではなく、光・音響・空気環境・防災等への配慮がされ、各種スポーツ利用に適していること。イベント利用に対し、持ち込み設備へのフレッキシブルな対応が、安価にできること。
こうした多用途の自治体ドームを「コミュニティ・ドーム」と定義し、計画条件の提案を行いました。
・建物は、全天候型の屋根を持つこと
・グラウンドは、面積15,000㎡程度であり、屋外球技に対応できること。
・用途は、主目的を明快にし、かつ多用途にもに展開が可能であること。などであります。
②について:
それまでの都市計画公園では、許容建築物面積は、通常敷地面積の2%まで、特例として7%のものもありましたが、ドーム型の施設は想定されていませんでした。出雲健康公園の場合も、このことは重大な問題であり、都市計画公園としての決定を見送り、単独起債事業(地方交付税措置あり)として、事業化しました。公園とドームの規模を決定するためのシュミレーションを行って、20%の建ぺい率を最大として求めました。これを用地選定の根拠とし、評点評価方式により、現在の位置を決定したものです。
その後、平成5年に建設省(当時)で都市公園施設の設置基準の改定があり、建ぺい率は、最高22%となりました。
③について:
景観に配慮した設計方針と周辺地区の景観誘導の方針を作成しました。
・出雲らしい地域精・歴史性を生かす設計(木造り、出雲行灯など)
・周辺地区における建築物・工作物(看板)などの高さ・色の基準設定等を提案
④について:
省エネルギーと人と環境にやさしい設計提案を求めました。
・公園やグラウンドの散水(地下水)に雨水の利用
・自然換気と自然採光の利用(テフロン膜)
・多様なエネルギー源の利用(深夜電力利用等)
・わかりやすく使いやすい設備で、専門オペレーター無しで利用できるシステム(スコアボード等)採用
⑤について:
当初から建設反対の意見が多く、マスコミからは、疑念の声が大きく取り上げられました。そこで、計画時から完成まで、定期的な報道発表を企画し、情報の公開を行いました。また、岩國市長の発案もあり、建設途中で各種の市民参加イベント(見学会・展示会(木材や機材)・子ども写生大会・上棟式・マウンド開き、タイムカプセルほか)を関係者の理解を得て実行しました。このことは、極めて意義があり、その後の利用促進やサポートにつながったように思います。
⑥について:
大型プロジェクトの実施に向けた設計には、あらゆる英知を結集する必要がありましたので、事業家スタイルコンペの提案をしました。私の恩師(故 木島安史当時熊本大学教授)からのアドバイスを受けて、コンペ要項をまとめましたが、同時にVEの観点や公共工事の多様な発注のあり方、先導的な取り組みとして、評価を受けました。日本でも初めてのケースではなかったかと思っています。なお、このコンペの記録は、本にまとめたものが出雲市中央図書館に所蔵されています。
出雲健康公園・出雲ドームプロジェクトは、多くの技術関係者の努力はもとより、多くの市民に支えられて実現したことは事実であります。当時お世話になった方々に思いをはせ、改めて深く感謝申し上げます。
さて、出雲ドームは、東京オリンピック2020年の年には、着工から30年を迎えることになります。今後は、関係者の皆さまが、出雲ドームの利用実態や維持管理上の課題を明確にしながら、次の世代に確実につないで行ってくれることを願っています。
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(出雲ドーム内観(竣工時)現在は、人工芝張り)
都市景観整備プロジェクト 002
○都市景観整備について思うこと 002-1
2014年11月1日
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(景観行政への取組提案書と出雲市景観整備基本計画)
皆さんは、都市景観について、どのようなお気持ちをお持ちでしょうか。私の住んでいる出雲市の昨今の都市景観の変遷をみますと、少々残念な思いがあります。地元の商店に変わって郊外型の店舗が目立つようになり、また住宅も出雲の風土にはいささか合わないような形態のものも見かけられ、控えめなデザインが連なる出雲の懐の深いともいえる落ち着いた景観が損なわれているように思います。
出雲市は、平成元年(1989)に「出雲市まちづくり景観条例」を制定し、平成2年に「景観整備基本計画」を作成しました。当時の出雲市は、多くの街づくり事業が進められようとしている時期でありました。
新しいものを造ると同時に良きものを保全したいという思いから、景観行政の取組みを進めるため、「出雲らしい景観・町づくりに向けて」というレポートを岩國市長に提案したことが思い出されます。
それから四半世紀を経たところですが、改めて都市景観の整備についての思いを綴ってみたいと思います。
(1)景観整備の課題と把握の視点
(2) 景観構造と景観要素
(3) 景観整備の基本方針と取組み
(4)今後について
(1) 景観整備の課題と把握の視点
東京農業大学の元学長の進士五十八(しんじいそや)(造園学)氏は、その著書の中で、「景観整備は、行政内部の総合化と市民・民間との共同作戦であり、重要なのはゴールのイメージを明確にし、確認しあうこと」と指摘しています。
1970年代後半に横浜市の都市景観条例が制定されて以降、各自治体の景観行政への取組がみられるようになりました。国が景観法を制定したのは、平成16年ですから、それから約40年が経過してからになります。
また、アーバンデザインの手法による道路や橋の修景計画も盛んとなり、CADによるCG技術の急速な進歩は、飛躍的に景観シミュレーションを容易にしました。技術の進歩に呼応して市民の景観や公共プロジェクトに対する要望や根拠(比較検討資料)に対する意識も格段に高くなってきています。景観計画が、一部の専門家や事業主体者・行政担当者のものから、大きく変わっていることを認識しなければならないと思います。
このことを謙虚に受け止めて、次のような課題を把握をする必要があると思います。
① 都市のあるべき姿(わかりやすい街づくりの理念)があるのか?<フィロソフィ>
② 景観整備のための戦略的な事業を持っているか?<プロジェクト>
③ 土地や建築等の誘導手法を持っているのか?<コントロール>
④ 環境設計等を進めるための専門家が関わる体制になっているのか?<オーガナイゼイション>
⑤ 経営的視点、技術的視点での調査や評価ができるようになっているのか?<リサーチ>
⑥ 景観学習や環境教育などの補完的な計画プログラムを持っているのか?<ソフトプランニング>)
これらの6つの基本的な課題点を地域の実態に即して見極めることが、最初にすべきことであると思います。次に必要なのは、その地域における景観に関する分析であります。
(2) 景観構造と景観要素
都市には、歴史的、自然的、文化的な様々な要素があります。都市景観を視覚的に把握する場合、景観構造と景観要素が挙げられます。都市の形態的構造を決めているものとして、大景観すなわち地形や自然景観、都市のインフラがあり、それらの中に地域の個性や魅力をつくる景観要素があります。
景観要素を考える時には、ケビン・リンチが「都市のイメージ」の中で、エレメントとして挙げている分類が参考になります。
① パス paths (道路や川)
② エッジ edges (縁や境界)
③ ディストリクト district (地域、生活ゾーン)
④ ノード nodes (結節点、交差点)
⑤ ランドマーク landmark (目印)
都市景観の分析には、これらの景観要素の分布と、その都市における特性をクロスさせて評価することが大切で、景観整備のポイントが明確になるという考え方です。
(3)景観整備の基本方針と取組み
景観整備は、優れたものを<①保全>、手を加えることによる<②修景>、新しい要素を<③創造>すること。これが基本であります。また、道路等の公的領域と住宅等の私的領域とのあいだにある境界(セミパブリック)領域の整備やその誘導策も重要なところであります。
そして、基本方針として、市民・事業者、行政、専門家に求められるものは、次のようなものがあります。
<市民・事業者>
・日常生活での景観への気配り(建物・外構・看板など)
・景観整備への理解・協力と景観整備活動への参加
<行政>
・公共施設における景観へ配慮した設計の推進
・わかりやすい住民への情報ていきょう・PRの推進
・景観整備の誘導策の実施(地区計画、景観形成地域指定や助成制度)
<専門家>
・景観づくりへの積極的提言
・市民と行政の橋渡し、積極的働きかけ(コーディネーターとしてワークショップの企画や実施等)
(4) 今後について
景観整備は、第一ステップの道路や橋の景観検討から、まち全体の課題と認識し、景観条例制定などの第二ステップに入っています。これからは、まさに市民への浸透と広域への展開に向かう第三ステップにいなかければならないと思います。
また、景観整備を具体的に取り組むうえでは、「様々な視点で考えること。一つ一つ丹念にかつ粘り強く行っていくこと」が、重要であると思います。
大袈裟な言い方になりますが、「景観整備は、単なるデザインにとどまらず、人々の生き方、まちづくりの理念、地域産業や活力、交流を生み出すために深く係っている。」と思っています。
出雲市は、先に述べましたように平成元年に「出雲市まちづくり景観条例」を制定していますので、その取り組みは、早いほうかと思います。その後の広域合併を経たわけですが、他の都市に無いような多様な景観要素を持つことになったと思います。今、改めて発見し、見つめ直す時期ではないでしょうか。
そして、出雲市景観条例の精神が、確実に次世代に受けけ継がれて行くことを強く願っています。
出雲文化伝承館プロジェクト003
○独楽庵と露地の復元(回想)003-1
2014年11月8日
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(独楽案と露地の復元図)
出雲文化伝承館は、市制50周年の記念事業として位置づけられ、平成2年の秋完成しました。当時、斐川町(現在は合併し出雲市)坂田にある江角邸の母屋と長屋門及び出雲流庭園を移築保存したものです。合わせて、敷地内には、旧松江藩主松平不昧公が、江戸の別邸で終生大切にしたとされる独楽庵を中心とする茶室及び露地庭が復元され、また、歴史・美術展示室やそば処も整備されています。
その後、平成になってから、南側隣地に出雲文化工房や縁結び交流館が整備され、現在は、観光見学だけでなく、市民の総合文化施設として活用されています。
さて、このプロジェクトの企画者は、常に出雲の文化を愛し、継承していくことの大切さを説いておられました当時の出雲市長直良光洋氏と検討委員会のメンバーで後に初代館長となられました藤間亨氏のお二人でありました。
昭和61年の春、突然市長から私に電話があり、「今から行くところがあるから、同乗して付いて来てくれ。」と言われ、緊張して市長車に乗り込んだのを覚えてします。向かった先は、隣町の斐川町坂田にある豪農屋敷、江角邸でした。「伊藤君、江角家を見てどう思う。」と問われ、とっさに「これは、保存して活用もできる立派な邸宅ですよ。」と返事をしました。聞くところによると、当家の方は、既に関東にお住いで、残念ながら住んで管理する人がおられないため、庭園の草木は伸び放題になり、建物屋根瓦の一部が破損して雨漏りも見られました。言い方は失礼とは思いますが、これを何とかしようと考える人はないと思われるような状況でした。
続けて市長から「これを活用してほしいという話があるが、移築できるか。」と問われ、「今なら建物も庭園もできますよ。」と答えると、満足そうな笑顔でした。そして、「帰りに平田市で移転改築したばかりの木佐本陣(県道拡幅の街路事業により、平田市が移転改築を実施)に寄るから」と言われ、同行しました。当時平田市長になられたばかりの太田市長も現地で出迎えをされ、一緒に見学をさせていただきました。帰りの車の中で、「国の補助金等の支援を受けて、うまく事業化する方法はないか。」と検討して欲しい旨の話がありました。「検討できると思います。」と返事をすると同時に、私は車中で思っていたことを伝えました。
それは、修士時代に宮崎県日南市の飫肥地区(後に伝統的建造物群保存地区に指定)で、指定のための事前調査と整備計画報告書づくりに参加して、街づくりの上で歴史的保全の重要性を学んだことや、出雲の街づくりのためには、自分たちでできるような仕組みづくりが必要で市役所も技術者を含め、多様な人材の育成が必要ではないかなどということでした。若さの勢いに任せた話しでありましたが、市長はうなずいておられたことが、印象に残っています。後で思うと長年出雲市長をされ、バトンタッチされる前に決心されたプロジェクトではなかったかと思います。
帰庁後は、上司のK氏(後の副市長)と協議し、企画をまとめ、自治省の「ふるさとづくり特別対策事業」の指定を受けて事業化することになりました。また、整備に向けての体制ができ、当時、総務企画担当で私の同期生でありましたKさんらと協議しながら進めることになりました。
一方で、直良市長は、有利な財源の確保の上で、市議会にも出雲文化を保全・継承することの大切さを伝えられ、理解を広げていかれました。「一般に建物は、建てられた時が一番にきれいでいいが、この施設は、時が経ってその良さが出てくる。いずれ先では、文化財指定を受けるようにしたい。」と言われたことが、心に残っています。
翌年の昭和62年には、基本計画検討委員会を設置し、事業の目的、整備方針・内容、スケジュール、運営管理などを検討しました。その年の夏休には、江角邸の建物・庭園の現地調査が京都大学建築学科の西村研究室の皆さんの協力で実施されました。また、移築先の検討も並行して行いました。現在の場所は、昭和57年に開催された島根国体に合わせ出雲市から大社町へ繋がる県道浜山公園線が整備されていましたので、島根ワイナリーや出雲大社との連携が比較的取りやすく、周辺の田園景観を考慮できること、地元の理解が得られたことで決定されました。
検討委員会では、単なる江角邸の解体移築のみでは、公共施設としての長期的な活用が限られることから、複合的な利用の展望が開けるようにすべきとして、委員全員が一致した意見でした。検討する中で茶人でもあります藤間先生が、以前からその復元ができればと強い思いを持っておられた藤間家所蔵の「独楽庵御囲所絵図」の活用を提案されました。
出雲は、茶道文化が栄え伝わる土地柄でありますので、委員全員がこの独楽庵の復元という企画をもう一つの目玉として賛同され、企画していくことに同意をされました。
独楽庵は、松江藩七代藩主松平不昧公が所有する2万坪を超える大崎(現在の品川区)の下屋敷にあった一大茶園の中で、最も大切にしたとされる茶室です。千利休が秀吉に請い入手した長柄の橋杭3本を使って、宇治田原に造ったと伝えられる二畳台目の茶室です。独楽庵は、合築された2つの茶室「泰叟、船越」と露地庭「三関三露」(2mの高塀に囲まれた、外露地、中露地、内露地)を持っているなど、松平不昧公好みの茶苑として、極めて稀な庭園であり、大変な復元事業でありました。
犬山市にある国宝の「如庵」など、有名な茶室は多くありますが、復元された独楽庵は、その路地の復元を含め、その価値をもっと多くの人に知ってもらいたいところです。
復元は、日本の茶室・数寄屋建築の第一人者である京都繊維工芸大学名誉教授の中村昌生先生にお願いされました.この復元についての苦労話しや詳細は、「(特集)復元ロマン 伝統の継承4独楽庵(序論:藤間亨、本論:中村昌生);1994年INAX REPIORT No112」に触れられています。
昭和63年から造成工事に着手し、平成元年から平成2年には、屋敷の移転復元、独楽庵の復元、展示館などの工事が進みました。江角邸の移転改築設計は、地元の馬庭設計、工事は清水建設と地元の御船組の共同企業体、独楽庵は、設計を中村先生と京都伝統技術協会、工事を京都の安井杢工務店、庭園設計を京都景画、施工を地元のもちだ園芸が担当しました。これ以外にも多くの方の献身的なご協力があり、実現の運びとなりました。
さて、完成後四半世紀経て、何度かの小修繕をしながら、平成26年の秋からは、独楽庵の修繕工事が始まっています。日本文化の神髄は、手入れをしていくことであり、その中で美を意識するのではないかと思います。文化資産を保全していくことは、たやすいことではありませんが、その奥にある心を大切にし、また意識し、伝えなければなければならないと思います。
出雲屋敷と独楽庵を含む出雲の文化資産は、次世代への理解を育みながら、確実に伝えていかなければならないと思います。今、改めて、造って終わりではなく、伝えていく責務を感じています。
私は、遠方から知人が来ると、出雲文化伝承館のそば処で食事することにしています。是非、皆さんにもお勧めします。
駅周辺地区整備プロジェクト 004
随時掲載予定